その2 陰陽師篇
すっかりと春も行き過ぎて、陽の照りようが気温の上がりようがするすると勢いづき、そのまま夏になってしまうのではないかと思われるほどとなって。冬物はとうに片付けたものの、夏のお支度はいつがいいかしらね。袷(あわせ)から単衣(ひとえ)へ、生地も麻や紗、絽など、暑い時期の薄物のお召しをそろそろ考えねばなんて話題が上っていた、季語で言うところの“夏隣り”の頃合い。
「雨ですねぇ。」
「雨だなぁ。」
「よく降りますねぇ。」
「よく降るなぁ。」
鬢や襟足にうっすらと汗が光るほどの、初夏の陽気、夏の兆し。こうまで暑いのも敵わんなぁなんてな苦笑を交わし合い、それでも寒さに身を縮めているよりはと、笑顔が絶えなかったものが。
――― 夏が来る前に必ず降るものがあって。
五穀豊饒、殊に早苗のためには必要なもの。田を起こし、水を張り、根付かせるのに、なくてはならぬものだから。まま、お湿り、慈雨と喜ばねばなと、お調子者が嬉しそうに言ったりするが、
「鬱陶しいには違いないよな。」
「そうですよねぇ。」
まだ昼だが、陽がない分だけ仄暗いのでと。蔀(しとみも御簾も、全部を大きくからげ切った広間の、すぐにも外という縁辺り。気を合わせたように、当家の主従が板の間にそれぞれに座り込み、庭を眺めてぼんやりと佇んでいる。雨脚はさあさあと静かだが、昨日から降り止まぬ息の長い雨だ。相変わらずに整えられてはいないものの、それでも新緑が随分としっかりした色合いになって来た庭先をしとどに濡らしており。梢の若緑や茂みの深緑を尚の濃色へと塗り潰しているのが、手前に奥に見渡せて。昔はそれなりの格の主人が風流を味わっていた証し、上がり口の濡れ縁近くに細々と連なる玉砂利敷きの微かな名残りが、乾いた白から今は濃い灰色に濡れている。
「う〜。」
こんなじめつく日には書物を広げるのも億劫だし、歌を詠むよな風流人でもない。そうかと言って外出も侭ならず、駒での野駈け・遠乗りなんて以(も)っての外だし。訪ねて来る客人も極端に限られた家は、その家屋の中でたゆとう時間ごと一気にゆるゆると、欠伸混じりついででも辿れるような遅脚になる。
「お館様の番ですよ?」
「んん〜?」
板の間には“一応は対戦中だったんですよ”の双六遊びが広げられていて。漆に白蝶貝の象眼もなかなか凝った作りの盤の上、ちょこりちょこりとお互いの駒を進めているものの。双方ともに気が散っているせいか、なかなか進まず決着もつかない。
「ん〜。」
盤面を見下ろしたついでに、ひょいと小さな書生くんの手元を見やれば、何やら小さな玉のようなものを手のひらにコロコロ。
「………なんだ? そりゃ。」
「え?」
本人も無意識の内だったのか、問われてもすぐには何のことだか判らなかったらしくって。自分の手元へ視線が下がっておいでなのに気づいて、それを辿って、やっと“ああ”と理解が追いついて、
「玻璃玉です。」
ガラスはまだまだ珍しい品で、物が良ければ どうかすると宝石扱いだったりもする。とはいえ、唐天竺から輸入するばかりの大昔ほどではなく、上達部やら地頭・豪農のみならず、下級貴族や一般市民でも何とか手に入るほどの安価なトンボ玉なども出回ってはいる頃合い。セナが無意識にも板の間にころころと擦りつけては、小さな手のひらに冷たい感触を当てて楽しんでいたのは。大人の男の親指ほどもある、結構な大きさの透明な珠で。3つほどあった内の1つを屈託なく はいと差し出したので、受け取った蛭魔は“ふ〜ん”と撓やかな指先に摘まんで、少しは明るい庭の方へとかざして透かしてみる。透度が高くて濁りも泡もない、どこにも歪みのない正円の、なかなか綺麗な出来のもの。ほんのりと翠がかって見えるのは、緑あふるる庭を向こう側へと透かし見ているからだろうか。
「先日、進さんが下さいました。」
「進が?」
視線を戻せば、幼いお顔が頷きながら ふにゃんと笑う。
「はい。朝早くのお庭の葉の先に留まってた露が、透き通ってて綺麗ですねってお話をしていたら。」
セナはこういうものが好きなのかと、露に似たものということで、何処やらから持って来て“これをやる”とくれたらしい。
「ほほぉ、一丁前に求愛の贈り物なのか。」
「え…?///////」
途端に…という反射で真っ赤になったセナだったから、結構大人になったものだなと苦笑する。苦笑混じり、ほれと緩く緩く放って返せば、あわわと慌てて小さな両手で受け取って、そぉっと大事そうに懐ろへ。伏し目がちになり、手のひらごと胸元に押し付ける仕草が何とも愛らしい。
「…お館様。」
「んん?」
「双六。」
「ああ。」
そういえばこっちの番だったかと思い出したが、やっぱり何だか気が乗らないし、セナの側もあまり集中はしていない模様。気がつけば、さっきまでと同じく、ぼんやりと庭先へと視線が向いている。淡い緑ばかりだった紫陽花の蕾が、その縁を青に染めかけていて、あと数日もすれば次々に咲くだろう気配。奥まった池の縁には柳の枝にも若い新葉が萌え出しており、発色のいい色合いで枝垂れたまま、時折の風に揺れている。いつの間にと思う。結構、何をするでなく眺めていた空間な筈なのにな。見ていたようで見ていなかったということか。
「…お館様。」
「んん?」
「二人って、一人と一人な時と、ちゃんと二人な時があるんですね。」
「ああ?」
何だか、あっさりとは飲み込めなかった言い回し。子供の拙い言葉と見做し、そうかいそうかいと適当に聞き流してもよかったが、その手元に玻璃玉を見やっての言いようなので、ちょっぴり…関心が向いて言葉を待てば。
「今朝早くに、お帰りになられるところの葉柱様と、やっぱりこやってお庭を見てたんですが。」
「…うん。」
「それって、一人と一人だったんですよね。」
「うん。」
「でも、その後で。お水を汲んでたら進さんがお手伝いにと出て来てくれて。特に何て話もしていないのは同じでしたのに、その時は“ああ二人で居るんだ”って、ほこほこと温かい気持ちがして。」
同じ“二人”なのに。見知らぬ相手とたまたま居合わせたよりも親しげな、互いに互いを把握し合った相手が、傍らにあることをちゃんと認識しての“二人連れ”なのは同じな筈なのにね。独りが二人分の“二人”と。眼差しさえ交わさなくとも、同じもの見ているだけで気持ちが寄り添う“二人”と。そんなにも温度差がある、2つの“二人”があるんだなぁって気がついたんですと、微笑ましい口調で語った少年は、
「でもね、これを見てたりすると、
独りなのに二人でいるような気持ちになるんですよう。///////」
「………ほほぉ。」
ふわふかな頬をほんのりと染めている様は、確かに初々しくも愛らしかったが、つまりは…何のことはない、単なる他愛のない惚気だ。
「そうかいそうかい。つまりお前は、今この時も“独り”でいるというのだな。」
「ふえぇ?」
「俺との差し向かいは退屈でならんと。そういうことなのだな?」
「あっあっ、そんなことは言ってませんようっ。」
うっかりしていてお館様を怒らせてしまったと、慌てて執り成すような声を出す。ご機嫌の波や緩急を掴むのが相変わらずに難しい、たいそうお天気な気性をなさったお師様に、これでも随分と懐いて馴れたつもりだったのにね。ツンとそっぽを向かれてしまったのへ、どうしようどうしようと心騒がせ、大きな瞳を涙目に潤ませれば。やっとのこと、冗談だと苦笑しながら髪を撫でて下さる意地悪なのも相変わらず。
――― 我らを此処に閉じ込めての“籠の鳥”にした雨が悪いのだと。
薄手の単衣越し、肌の温みが伝わるそのまま。撓やかな腕を伸ばすとこちらの薄い肩を抱いて、耳元近くで囁いて下さる悪戯者。こぬか雨は単調なまま、まだまだ降りやまず。縁の下に雨宿りした仔猫が、何にかお耳をひくりと震わせて。そのままふるると勢いをつけて、ひげの先から何をか振り払うように首を振って見せた。
◇
一人でいた時は気がつきさえしないでいたような些細なものが、二人で共有したとなると途端に大切なものになったり。独りでいる時には何より愛でるほどにも気を留めるものがあっても、二人になると眸にさえ入らなかったり。
「………なあ。」
「んん?」
昼との境界線も曖昧なままに、陽が落ちて宵が更け。濡れた土の匂いが冴える中、やっとのことで上がった雨脚の隙をつくように、いつもの漆黒の狩衣を湿らせもせずやって来た、黒の侍従こと蜥蜴の大将へと。そんな柄にないこと、ねだるようについつい口にしてしまったのは。あの大人しい書生くんの珍しいお惚気と、小さな玻璃玉を手に…あまりに幸せそうに笑ったのとが忘れ難かったからかもしれない。
「お前がいない時の身代わりに、何か置いてゆけ。」
「………はあぁ?」
逆境にあっても悠然と胸を張り、向かい風に敢然と向かい合い、いつだってそりゃあお強い術師殿。熱でも出たかと白い額に大きな手のひらを伏せれば、猫が嫌がるように ふるると首を振って払いのける。
「眞(まこと)の名を呼べば、殆ど同じ間合いの刹那に推参出来るが?」
「そういうのではなくってだな。」
誰が火急な時の話をしているよと、むずがるようににじり寄り、
「お前を呼ぶほどではないが、その…なんだ。ああお前だなって思えるもんが、」
手元にいつもあればいいかなと。続けかけて、柄にないとさすがに頬が熱くなり。宵の薄暗がりに誤魔化すように、視線を逸らしてそっぽを向けば。そんな素振りをどう解釈したやら、
「何かの腹いせや退屈しのぎに、性の悪い呪いとか、かけるんじゃなかろうな。」
「………それが所望ならかけてやっても構わんぞ。」
単に勘の悪さもあるのだろうが…どういう人格だと思われているやらな葉柱からのお言いようへ、それは素直に目許を眇めた麗しの君。言ったと同時に素早く手が動いて、相手の前髪を一房も掴むとそのまま思い切り、大柄な葉柱がまんまつんのめるほどの勢いで、板の間へどったんと容赦なく引き倒しているから恐ろしい。
「痛ってぇーっ、てゆうかっ。貴様、それを何に使う気だっ!」
「俺に呪ってほしいのだろうが。じわじわと、だが、確実にきれいさっぱり禿げる呪いなんてのはどうだ?」
こらこら、蛭魔さんたら大人げない。(苦笑) 何だかよく判らないが、怒らせたらしいというのだけは判ったので。
「それだけは勘弁して下さい。」
速攻で頭を下げれば、ふんと息をついて手に摘まんでいた数本の髪を何処ぞへと払い飛ばす術師殿であり。怒っていても綺麗な顔容(かんばせ)、ついつい見とれて動きが止まっていると、
「だから…。」
真摯な眼差しに疚しいところでも擽られたか、強気がたちまち萎んで………幾刻か。
「………そっか、ちびさんがの。」
ぶつぶつとぶつ切りに、ぼそぼそと低い声にて語られたものを統合し、やっとのことで彼の言わんとしていたらしき“本意”へと到達出来たが、
“やっぱ、無茶苦茶な奴だよなぁ。”
だから眞の名前を呼べばいいのにと、こちらさんもそこんところが何だか鈍感なお人なのが相変わらず。
「そうは言っても、玻璃だと二番煎じだし、貴輝石は好かんのだろうし。」
意外かもしれないが、流行のきらびやかなもの、これみよがしに華美なものは、毛嫌いしている節の強い蛭魔でもあり。本人が十分にド派手だから、そこへの過度な美粧はくどくなるばかりで粋ではないとでも思うのか。参内の折りや儀礼の際など、必要があっての装いの他の場では一気に手を抜きまくり、この屋敷にいる時なぞは、単色の袷や小袖に袴だけというような、いかにも間に合わせの恰好でいることを厭わないずぼら者。
「………そうだな。俺の身代わりってんなら。」
うんうんとしばし考え込んでから。ポンと手を打ち、顔の近くへ上げた手へと呼び出したのが、
「それは…。」
「ああ。暗黒の剣だ。」
だからこれをやるとは言っとらんと、速やかに手を伸ばすのから、これへは勘よく反応して遠ざけて。
「邪妖封滅の剣だからお前が触れても害はないが、これは俺と契約している代物だからな。」
「だから?」
「陽向(ひなた)に置けばあっと言う間にひからびるぞ。」
なんだ使えねぇと判りやすく頬を膨らませるのへ、よくも言ってくれるよなとの苦笑を返しつつ、
「ほれ。」
鯉口に間近い鞘の中ほど、組紐が巻かれてあった先から外されたのは、細い革紐でくくられた、ちょこっといびつな形をした緑の石だ。
「翡翠…か?」
「ああ。この剣を使い始めた時にな、まだこんな風に自在に呼び出せなかったんで、腰から提げるのにって根付けとして使ってた。」
ただ鞘を帯に差すだけでは安定が悪いし、隙を衝いて奪われる恐れもある。そうかといって堅く結びつけてしまうと取り外しが面倒。そこでと、紐の先に提げておき、着物の帯に挟み込んで使うのが“根付け”というアイテムで、煙草入れや印籠を提げるのにも使う。今風に言うとキーホルダーやストラップみたいなものかもですね。
「その剣を使い始めたころから?」
「ああ。」
この自分との付き合いも結構長い石。角の丸くなった抹茶色の軟鉱石。気ばかり逸ったもっと青かった頃は、手持ち無沙汰な時など、手のひらの中、やたら転がしていもしたなと思い出す。びいどろ玉くらいとしか思っていなかったが、手渡された蛭魔の白くてほっそりとした作りの手にあると、意外なくらいに大きく見えて。
「それでもいいか?」
「チッ、しょうがねぇな。」
我慢してやると言いたげなお言いよう。カチンと来る前に、
“なんて顔、してやがるかな。”
こぼれて止まぬ笑みに、口許を頬をほころばせ。ちょっと立ってゆき、燈台の明かりの輪の外。壁に作り付けの棚から文箱を持って戻って来ると、中をごそごそと漁って銀の細い鎖を見つけ、その先に石をぶら下げて…なんと首からかけて見せる彼だったから。
“…おいおい。”
この自分へ何かをねだるという行為自体が、何となく擽ったい。どんな戦いの渦中にあっても、可愛げなく助けなんか要らないと、毅然としている細い背中ばかり見て来たから。頼った訳でもない、ちょっとした茶目っ気、自覚のない甘えに過ぎないのだろうけれど。
“…う〜ん。”
それは無邪気に嬉しそうに。笑ってる彼の懐ろへ。首から細い鎖で下げられた、不格好な翡翠の根付け。襟元をぴっちりと詰めない恰好が結構多い彼なので、
「…? どした?」
「何でもねぇよ。」
懐ろに抱いていて見下ろした、何の気なしの視野の先。白い肌の隅にきらりちかりと瞬く銀鎖の細い線やら、合わせの深みに覗く翠の陰やらに視線がそのまま吸い込まれ…ハッとして我に返るなんてことが、これまで以上に増えそうで。ますます尻に敷かれそうだなとの覚えも新たに、その腕の中、収まりのいい主人の痩躯を大切そうに抱きしめる。
――― 独りと一人。二人でも独り。独りなのに二人。
人の想いというものは、育めばいくらでも豊かに深まり。頑なにただ1つだけを見つむれば、他には何も見えなくなる。正義に背を向け、誰か一人とだけ向き合って、なさぬ業火に身を焼き、燃え尽きるも、また一興。遠く響く潮騒のように、さわわさわわと草むらを鳴らすは、夜陰をわたる風かそれとも、また降り出した五月雨か。腕の中には、至福の温もり。柔らかな髪にそっと頬を寄せ、邪妖の総帥、夢を見る………。
〜Fine〜 05.6.9.
Bへ進む?***
*雨というお題がどっか行ってしまいましたな。(苦笑)
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